顧客の声、インタビュー、日報、観察記録、自由記述のアンケート。こうした情報は、数値化されていなくても、重要な事実や変化の兆候を含んでいます。しかし、人間は新しい情報に出会うと、慣れ親しんだ概念や理論で説明したくなるものです。既存の分類に当てはめるだけなら、まだ名前のない現象は見えなくなってしまいます。
定性的データ分析(Qualitative Data Analysis)の役割は、単に文章を項目別に整理したり、頻出語を数えたりすることではありません。対象の中で何が起きているのかを、先入観を点検しながら理解することも重要です。その姿勢を考えるうえで、グラウンデッド・セオリー・アプローチ(Grounded Theory Approach、GTA)の出発点は示唆に富んでいます。
GTAの出発点 ― 理論を対象に押し付けない
1967年、バーニー・グレーザー(Barney Glaser)とアンセルム・ストラウス(Anselm Strauss)は『The Discovery of Grounded Theory』を刊行しました。当時、社会学の研究では、既存理論から仮説を導いて検証することが重視され、現場のデータから理論を生み出す研究が十分に評価されていないという問題がありました。両者は、経験的な調査によって新しい理論を形成するための方法論を提示しました。
ここで大切なのは、研究者が何も知らない白紙の状態で対象に向かうべきだ、という主張ではありません。むしろ、すでに知っている理論を正解と決めつけ、目の前の現象をその例証にしてしまわないことです。既存理論は比較や問いの手がかりにはなりますが、観察した事実に合わせて修正される可能性も開いておかなければなりません。
その後、GTAにはグレーザー系、ストラウスとコービンの系統、構成主義的グラウンデッド・セオリーなど多様な展開があり、コーディングや理論構築の手順にも違いがあります。ThinkNaviでは、それらの流儀を唯一の正統な手続きとして教えるよりも、まず原点にあった問題意識を重視します。
例:「変革への抵抗」と名付けた瞬間に見えなくなること
新しい業務システムを導入したところ、現場の社員が従来の帳票を使い続けているとします。これを最初から「変化への抵抗」という理論で説明すると、社員の意識改革や研修が対策の中心になるでしょう。
しかし、実際に観察すると、帳票には顧客ごとの例外処理や安全確認の手順が記載され、新システムにはそれを記録する欄がないのかもしれません。そうであれば、起きているのは単純な抵抗ではなく、公式のシステムが現場で必要な知識を十分に表現できていないという問題です。
最初のラベルを一旦保留し、具体的な行動とその条件を比較すれば、異なる説明と対策が生まれます。これは仮想的な例ですが、定性的分析の核心を示しています。
主な定性的分析手法は何が違うのか
| 手法 | 目的・特徴 | 注意点 |
|---|---|---|
| グラウンデッド・セオリー | 事例の比較を通じて、現象を説明する概念や理論を形成する | 単なるラベル付けだけではGTAにならない |
| テーマ分析 | データ全体に現れる意味のパターンを解釈し、テーマとしてまとめる | テーマは単純な話題別の箱ではない |
| 内容分析 | 文章や発話の内容をカテゴリー化し、必要に応じて頻度などを調べる | 出現回数と重要度を混同しない |
| ナラティブ分析 | 語りの構成、時間的展開、語り手の意味づけを考える | 発言を文脈から切り離しすぎない |
| ディスコース分析 | 言葉の使われ方、社会的前提、権力関係などを検討する | 言葉の頻度分析だけとは異なる |
| 親和図法・KJ法 | 断片的な情報をまとめ、まとまりや関係を可視化する | グループ化自体は説明理論の検証ではない |
これらの手法は目的や認識論的な前提が異なります。作業の形が似ているからといって同じ方法とは限らず、どれか一つが常に優れているわけでもありません。
比較によって概念を育てる
GTAで重要とされる考え方の一つが継続的比較法(Constant Comparative Method)です。似た事例をまとめるだけでなく、似ていない事例や予想に反する事例とも比較し、カテゴリーの意味や適用条件を見直します。
例えば、同じ「顧客の不満」という言葉が記録されていても、価格に対する不満、期待と実績の不一致、業務変更による要求の変化は、異なる問題かもしれません。逆に、まったく異なる表現の発言が、同じ構造の問題を指していることもあります。比較と再分類を繰り返すうちに、当初は見えなかった概念間の関係が浮かび上がります。
研究では、形成されつつある理論に必要な事例を追加して調べる「理論的サンプリング」も用いられます。重要なのは、最初に集めたデータを一度だけ分類して終えるのではなく、暫定的な説明に応じて、次に何を観察すべきかを変えることです。
LLMは何を助け、何を妨げるのか
LLMは大量の自由記述から関連箇所を抽出したり、似た発言を整理したり、仮説の候補を挙げたりできます。定性的分析の作業を支援する可能性は大きいでしょう。しかし、LLMは学習済みの膨大な文章に基づいて「もっともらしい説明」を生成するため、未知の現象を既知の枠組みに回収してしまう危険もあります。これはGTAが戒めてきた態度とよく似ています。
AI協調型の定性的分析では、原文・出典・前後の文脈を保持し、AIの提案するカテゴリーを確定済みの事実と区別する必要があります。複数の解釈を並べ、分類できない事例や反例を残し、必要なら追加調査へ戻る仕組みが望まれます。
数理的なクラスタリングは類似した文書をまとめる助けになりますが、クラスタが何を意味するかは別途検討しなければなりません。頻度が低い少数の発言にこそ、重要な新しい問題が現れている場合もあります。
分析する前に問うべきこと
- そのカテゴリーは、対象を観察して形成したものか、それとも最初から用意したものか。
- 既存の説明に当てはまらない事例は、どこにあるか。
- 同じ言葉を使う人々が、本当に同じことを意味しているか。
- 一つの解釈を選ぶことで、どの事実を見落とすか。
- 次にどの事例を調べれば、説明を修正できるか。
定性的データ分析の価値は、定型の手順を正確になぞることだけではありません。目の前の対象に、自分の知っている理論以上のことを語らせるために、観察と概念を往復することにあります。
参考文献・関連資料
- Barney G. Glaser and Anselm L. Strauss, The Discovery of Grounded Theory: Strategies for Qualitative Research (1967)
- Kathy Charmaz, Constructing Grounded Theory (2006; 2nd ed. 2014)
- Virginia Braun and Victoria Clarke, “Using Thematic Analysis in Psychology” (2006)
- Grounded theory methodology: has it become a movement? (2012)
- Braun & Clarke: Comparing thematic analysis and other qualitative approaches (2021)